東京高等裁判所 昭和41年(ネ)1845号 判決 1968年2月15日
控訴人
東京都
右代表者知事
美濃部亮吉
右指定代理人
石葉光信
ほか五名
被控訴人
加藤輝一
ほか一名
右両名訴訟代理人
芦田浩志
同
鷲野忠雄
主文
原判決中、控訴人敗訴の部分をつぎのとおり変更する。
控訴人は被控訴人加藤輝一に対し金三〇万円、被控訴人加藤シナに対し金五万円、および右金員に対する昭和三九年四月二一日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
被控訴人両名のその余の請求を棄却する。
訴訟費用は、第一、二審を通じ、被控訴人加藤輝一と控訴人との間に生じた分および被控訴人加藤シナと控訴人との間に生じた分を各五分し、それぞれその一を控訴人の負担とし、その余を各当該被控訴人の負担とする。
この判決の第二項はかりに執行することができる。
事実
控訴代理人は「原判決中控訴人敗訴の部分を取り消す。被控訴人らの請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。」との判決を求め、被控訴代理人は控訴棄却の判決を求めた。
当事者双方の主張と証拠関係は、左に付加するほかは、原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する。
控訴代理人は、
一、本件信号機の燈火の発散角度は、左方右方および下方にそれぞれ六〇度以上になるように設計されている(道路交通法施行規則第四条では、これが各四五度以上であることとされている)ところ、本件横断歩道西端から本件信号機の見通し角度は約四七ないし五五度であるから、これが横断歩行者の健常視野(一眼で外方に約七〇度以上)内に入ることは明らかであり、この程度の例はごく普通にみられ、何ら歩行者に難きを強いるものではない。また、本件信号機の位置を本件横断歩道寄りに接近させるとか、あるいは本件信号機のほかに別の一般信号機を設置することは、車輛および他の横断歩道の交通規制上適当でないし、本件横断歩道に歩行者専用信号機を設置することも、当時の交通量(歩行者数)からみて、緊急の必要性があつたとは考えられない。しかも、歩行者専用信号機を設置するかどうかは、都公安委員会の自由裁量であつて、これの設置義務があるわけではないのである。したがつて、本件につき信号機設置についての瑕疵はない。
二、信号機の設置者は、歩行者が交通法規を守り自己の安全保持のため必要な注意を怠らないことを信頼して、信号機を設置すれば足り、交通法規を守らず必要最低限度の注意能力も有しない歩行者が信号機の存在とその表示に気付かないで事故をおこすことまで予想して信号機の位置を定めなかつたからといつて、信号機の設置に瑕疵があることにはならない(信頼の原則)。
本件において、被控訴人加藤輝一は、酒に酔つて、信号機の赤色信号にも、交通整理の警察官の横断制止にも、接近する電車の軌音(約八五ホーンで普通の騒音より約一〇ホーンも大きい)やその警音器の音響(約九四ホーンで普通の騒音より約二〇ホーンも大きい)にさえも気付かず、軌道に接する地点からは、あたかも軌道内を進行する如く、接近する電車に背を向け、この間終始うつむいて歩いていたもので、このようにして信号を見落して事故にあつた歩行者は他に例がない。それほどに注意能力の異常に劣る歩行者の存在を予想し、これを標準として信号機を設置しなければ、瑕疵があることになるとは、とうてい解しえない。と述べ、<中略>た。
被控訴代理人は、控訴人の右主張を争い、<中略>と述べた。
理由
一本件事故発生とその状況、本件道路、横断歩道、信号機の状態とその設置管理権限の所在、これらの設置管理についての瑕疵の有無、信号機設置の瑕疵と本件事故との因果関係等に関する当裁判所の認定、ならびに控訴人の各抗弁に対する判断は、控訴人の当審での主張にかんがみ左に付加するほかは、すべて原判決理由一ないし六項記載のとおりであるから、これを引用する。
原審および当審における検証の結果によると、本件信号機の燈火は、当時、本件横断歩道西端から見て、正面より右へ約四七ないし五五度の見通し角度をもつて支障なく見通しえたものであることが認められる。しかし、信号機はただ単に見えさえすればよいというものではない。たとえ見えても、それがはたしてどこの通行をどのように規制しているのかが容易に判別できるのでなければ、信号機としての機能を十分に果しているとはいえないのであり、横断歩道を横断しようとする歩行者にとつては、その横断を規制する信号機の所在が即座にわかるような状態にあることが、とりわけ重要である。単に道路が十字に交差しその四隅に横断歩道があるというだけの簡単な構造の交差点であるならば、どちらの方向へ横断するにせよ、信号機による規制を認識することはおおむね容易で、誤解の余地はないといえよう。ところが、本件の交差点は、当時、原判決添付図面のように、東急田園都市線路軌道が南方から進入し、交差点中央を通つて、ゆるく東に曲りながら、東側歩道を横切つて北東の二子玉川園駅に入るようになつており、この普通なら交差点北端に接着して位置するであろう横断歩道がさらに約一六米も北寄りのちようど右軌道が東側歩道に接する直前付近に設けられていて、しかも電車進入時には本件信号機を含むすべての信号機が(南向き補助信号機を除いては)すべて赤色を表示するという、他に例の少ないこみいつた構造になつていたのであり、このように複雑特殊な機構の交差点では、被控訴人輝一のように土地に不案内な歩行者が時として本件横断歩道における横断の許否の判断を誤るおそれなしとしないこと、原判示のとおりである。かかる特殊性を無視し、普通の十字路と同じように考え、本件横断歩道の西端に立つて斜め右を見れば当然本件信号機の信号が目に入るはずであるとの故をもつて、横断の規制に欠くるところがないとするのは、信号機の設置管理者として安易に過ぎるものといわなければならない。道路における危険を防止し交通の安全と円滑を図る職責を有する都公安委員会としては、別に歩行者専用信号機を設けるなどの方法により、本件横断歩道を横断しようとする者をして錯覚ないし見落しの余地なからしめてこそ、信号機の設置につき、瑕疵がないということができたのである(なお控訴人は、信号機の設置は公安委員会の自由裁量であるというが、これを事実行為と区別された意味での行政行為と解し、自由裁量か羈束裁量かを論じうるものであるかどうかは、きわめて疑問である。しかし本件では公の営造物の客観的な瑕疵を問題とすればよいのであるから、この点の論議は殆んど重要でない。かりに控訴人の主張するように行政上これが自由裁量だとしても、それだけでは本件横断歩道の個所に別に信号機を備えなかつたことによる民事上の賠償責任を免れうることにはならない)。
控訴人は、歩行者が交通法規を守り自己の安全のため必要な注意を怠らないことを信頼して信号機を設置すれば足り、被控訴人輝一のように甚だしく不注意な歩行者を予想していなかつたからといつて瑕疵にはあたらない、と主張する。たしかに本件事故の発生については、控訴人の主張するように、被害者たる被控訴人輝一にきわめて大きな過失の存したことはこれを認めざるをえなけれども、これを後述の如く損害賠償額算定の上で大巾に斟酌することは格別として、ふくそうする道路交通の安全と円滑化のために設けられとくに歩行者の危険防止のため機能することを要請される信号機が、一般に歩行者は正常な注意能力を保有し常に自己の安全に関し十分な注意を怠らないものであることを前提として設置されれば足るものとは、とうてい解しえない。いわゆる信頼の原則は、その運行上常に危険を伴う自動車その他の高速度交通機関などについて、その社会的効用の故に、ある程度の危険は社会的に許容されるものとし、他の者に結果回避のための措置を分担させ、運転者などの刑事上の過失責任につき合理的限界を画する理論として有用なのであり、交通安全確保のために設けられる施設の瑕疵の判断にこの原則をもちこむのは、全く筋ちがいである。控訴人の右主張は採ることができない。
二、そこで次に損害について判断する。
(一) 被控訴人輝一は本件事故後、入院通院治療費として金二九万〇八三一円、付添看護婦に少なくとも金七万円を支払つたこと、しかし氷代、牛乳代の支出は未だこれを認めえないこと、被控訴人輝一の逸出利益現価は金一〇四万七四四八円と認むべきこと、以上は原判決理由七項(一)(二)に記載のとおりである。しかるところ、被控訴人輝一には原判示のように事故発生につき相当重大な過失があり、その態様に照らすと、これをかなり大巾に斟酌する必要があるというべく、右財産上の損害額合計一四〇万八二七九円のうち控訴人をして賠償せしむべき額は金三〇万円が相当であると認める。
(二) 被控訴人輝一の受傷の態様とその後の経過、被控訴人シナのこの間における看護と心労は、原判決理由七項(三)記載のとおりで、直接の被害者である被控訴人輝一が多大の精神的苦痛をうけたのはもとより、右傷害のきわめて重い状況からして、被害者の妻である被控訴人シナも被害者の死亡した場合に比し著しく劣らないほどの精神的苦痛をうけたものと認められ、したがつて被控訴人らはそれぞれ独自に慰藉料請求権を取得したものと解すべきである。そして前認定の本件事故の態様を考慮し、被控訴人輝一の過失も斟酌して、慰藉料額は被控訴人輝一につき金一五万円、被控訴人シナにつき金五万円をもつて相当と認める。
(三) 被控訴人らが東京急行電鉄株式会社との間において、本件事故に基づく損害賠償請求事件につき裁判上の和解をなし、損害賠償として同会社から金一五万円の支払いをうけ、これを被控訴人輝一の右慰藉料に充当したことは、当事者間に争いがない。
三、以上により、被控訴人らの本訴請求は、被控訴人輝一につき前項(一)の金三〇万円((二)の慰藉料は東急電鉄の弁済により消滅)、被控訴人シナにつき、(二)の金五万円、および右各金員に対する昭和三九年四月二一日から完済に至るまで年五分の割合の遅延損害金の支払を求める限度でそれぞれ理由があり、その余は失当である。よつて右と異なる原判決を変更し、訴訟費用につき民事訴訟法第九六条、第九二条、第九三条、仮執行の宣言につき同法第一九六条を各適用して、主文のとおり判決する。(近藤完爾 小堀勇 藤井正雄)